「ディーバ」からはじまるー声が支配する

80年代初頭に、フランス映画はある種の傾向が支配する。68年世代のユスターシュ、ピアラに代わり非政治的な世代が台頭する。それが、ジャン=ジャック・ベネックスであり、リュック・ベッソンでありレオス・カラックスである。彼らはコッポラやファスビンダーらの影響を受け、ミュージックビデオ、TVコマーシャル、ファッション写真にインスパイアされた映像を撮る。伝統的なプロットラインにハイテクノロジーなガジェットを配し、目も眩む映像で映画を満たしている。とりわけ、ベッソンとベネックスは広告とビデオのスタイルを使い、映像重視の映画となっている。善し悪しは別にして、その極点にあるのは、せりふを極力排し、青い海とそこに住む生物の映像で全編綴られるベッソンの『アトランティス』と言って良いかもしれない。現在の日本の映画作家の中でも岩井俊二は、テレビドラマ、CFの出身であり『Love Letter』『FRIED DRAGON FISH』などの物語より映像を重視する作風が、ベネックスと類似していると言ってよいかも知れない。
 『ディーバ』はベネックスの長編第一作であるが、既にこれらの特徴が見て取れる。ハイパーリアリズムやパンク的なスタイルと言った現代性や他の映画からの引用(地下鉄の通風孔でスカートのめくれ上がるシーン)が見られる。これは、近代社会がスタイル化されたイメージと、広告と映画の虚構が作りだした神話に支配されていると言うベネックスの認識に基づくのだろう。『ディーバ』の中でも、登場人物たちはローレックス、ナグラシステム、ロールス・ロイスというブランド名でコミュニケートする。こう言ったイメージが溢れる世界の中にベネックスは肉声を導入する。『ディーバ』の物語は、主人公ジュールが歌手シンシア・ホーキンス(=ディーバ)の歌うオペラ『ヴァリー』のアリアを録音することにより始まる。シンシアはコンサートによる瞬間的な出会いを尊重し、歌の録音を許さない。人々はこの肉声に魅惑され、その所有を試みる。しかし、冒頭でクレジットに被さって流れる曲は、コンサート会場から音が出ているかのように見えて、その実ジュールが録音したテープから出ているものである。彼がレコーダーをオフにするとたちまち音は消えてしまう。録音された音の支配はそれだけ強いと言えよう。声は、シンシアの美しい声のみではない。錯綜した二つの物語の展開にはもう一つの声が必要であり、それは娼婦ナディアの真実を語る声である。ともに私的なこれらの声は公にされてはならない。シンシアの声の海賊版が出回れば、彼女の声の価値は減り、単なる商業的歌手に堕してしまう。また、ナディアの声が公となれば、サポルタ警視の不正が白日の下にさらされることとなる。これら二つのテープを如何に奪うかで物語は起動する。ところで、『ディーバ』の登場人物たちはそれぞれ何か物を奪っている。ジュールは冒頭で、シンシアの声を録音して盗み、服も盗んでいる。ジュールを助けるベトナム人の少女アルバはレコード、キャビア、ローレックスの時計を盗んでいる。台湾人の業者は、シンシアのレコードの海賊版を出そうとしている。サポルタは人身売買をしているのだから人を強奪していると言える。こういった盗まれた状態を元の状態に戻そうしてストーリーは展開する。ナディアの声を求めて、サポルタの警視としての部下の警官達と、彼のギャングとしての手下のカリブ海とスキンヘッドが追い、シンシアの声を巡っては台湾のブローカーが追う。この二つのチェイスは、ゴロディシュのしているジクソーパズルのように錯綜しいる。そして、彼のパズルの図柄の海鳥が大きな波に脅かされている様に、ジュールもまた影の追跡者に脅かされている。そして二つの流れは幾つかの点で交差する。明白な事だが、一つ目は追われているナディアがテープを、ジュールのオートバイの袋に隠すシーン。二つ目はジュールが友人のバイクを借りる際に、ナディアのテープを間違えて取るシーン。最初、画面奥へと出発したジュールは、手袋を忘れたことに気づき、手袋とテープを取ると今度は逆方向に向かって出発する。画面奥と手前が逆になり、別の路線に転轍されるのだ。さらに、ゴロディシュとサポルタがテープを取引するシーンでも、サポルタの車のシトロエンへの交換、さらにゴロディシュを殺そうとしたサポルタは間違えて台湾のブローカーを爆死させてしまう。この取り違えのテーマにサポルタが偽造したナディアのテープを加えてもよい。錯綜した二つのチェイスを一方ではサポルタが操作しようとし、もう一方ではゴロディシュが支配しようとする。前者は取り違えを助長し、後者は元の状態を復旧しようとする。そして、最終的にはゴロディシュがジクソーパズルを解くように、全ての謎を解きほぐす。ここら辺の展開は極めてコミカルで、電話ボックスまでのかなりの距離の道のりを、ゴロディシュがすぐ車を運転して到着したり、かなり高い位置に居たゴロディシュがいきなり下にいるサポルタの目の前に現れたりする。
 色の点に関してもこの映画は極めて人工的に作られている。安全な場所は青色が支配し、危険な場所は黄色が支配する。ジュールが逃げ込むゴロディシュの部屋は青色が基調をなし、彼自身も青色の服を着ている。それに対しサポルタが指示をだす警察の建物は黄色い色が支配する。ジュールは自らの黄色いバイクに危険を感じて、友人の赤いバイクに代える。また、ジュールがシンシアとパリの街を歩くシーンでは画面は青く、翌朝シンシアがベットでジュールがソファで寝ているシーンも青い色が基調である。しかし、そこに台湾のブローカーが現れると徐々に黄色が画面を支配しはじめる。パリの夜の街は黄色い明かりが支配し、追われているジュールは娼婦の部屋(青いライトがある)に逃げ込む。だが、ジュールが青いライトを消した後に彼に危険が迫ってくる。彼は廊下に逃げるがそこは黄色い明かりで照らされている。そこにカリブ海とスキンヘッドが迫ってくる。ジュールは彫刻のある青い空間に逃げ込み追手をやり過ごす。しかし、逃げ込んだ駐車場は再び黄色い光が支配しジュールは追い詰められる。ようやくゲームセンターに逃げ込んだジュールは青い光を発するゲームのモニターの前で危機を脱する。さらに、黄色い光の支配する電話ボックスで電話するジュールは危機一髪で、スキンヘッドの魔の手からゴロディシュによって助けられる。その場を脱出する時に、ゴロディシュがジュールに青いコートをここでも着せている。途中、公園でジュールを治療するが、ここの色は青に近い緑である(『IP5』の緑を想起させる)。避難場所は灯台であり、ここは安全な場所であるが例外的に黄色である。しかし、ここでも安全性を示す、青い海が近くにある。
  前に述べた二つのチェイスの他にもう一つの追求がある。それは、最初の方で述べたように、ジュールによるシンシア(=ディーバ)の声の所有であり、シンシアに対するジュールの恋愛である。肉声への執着があるのだが、ジュールはそれを録音して保存しようとする。そして、ジュールが娼婦と寝る際にも、ベット近くの二体のブロンズ像のそれぞれにジュールのヘルメットとシンシアの服を被せてある。さらに娼婦はシンシアの服を身にまとう。こういった間接的感情を経て、彼はついに服を返して、シンシアと会うこととなる。そして、ピアノの弾き語りを直接聞くことになる。ここに一回限りの出会いがあるのだ。しかし、ジュールの部屋の壁絵が彼の運命を暗示したり、車の絵に車の音を被せたり、置物の鳥に鳥の鳴き声を被せたりするベネックスはリアルさをそう単純には考えていないだろう。『ディーバ』はロケを多用しているが、彼の人工性への趣味は、次の作品『溝の中の月』でチネチッタのセットを使って全面的に展開する。前述した色彩の対比、あるいはシンシアの歌うオペラとスキンヘッドが絶えずイアフォンで聞くキッチュな音楽の対比等も人工的二元的な世界を構成している。ゴロディシュが玉葱を切るときに着ける水中眼鏡とシュノーケルも間接性を表している。ラストでシンシアが歌っているシーンでも、彼女の歌に続けてジュールの録音した声が続くのだ。映画中の台詞とは逆に、作り物のイメージへの偏愛の方が際立つ様な気がする。ゴロディシュが自らの「悟り」について説明する「俺の悟りはバターを塗る瞬間の禅の境地。もはやナイフもパンもバターも存在せず運動だけ。」と言う台詞も斜に構えて言っているように見える。ベネックスがステレオタイプを多用しているとすれば、それはそういう現実を飽きることなく薄っぺらに列挙しているためであろう。全ては表象のみと言っているかのようである。シンシアのライブでの声も映画のために録音されたものでしかない。かえって、シンシアがまだ一回も聞いたことのないジュールの録音した声の方が、頭蓋骨を反響して響いてくる聞き慣れた声とは違う不気味なものとしてシンシアを揺さぶるものとなるであろう。それはステレオタイプのイメージには収まりがつかないものである。<肉声>が支配すると言うより、ベネックス的に見れば、「録音された<肉声>」が支配すると言った方が良いであろう。そして、ディーバへのジュールの「欲望」からすべてが始まるのだ。