『ラ・ピラート』

『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン)

1.扉とガラス

 ドワイヨンにとって扉は以下のようなものである。「かって、私はあるドア・メーカーにスポンサーになって欲しいと願い出たことがあります。それほど私はドアが好きなのです。(中略)ドアのない四○人共同の事務スペースで仕事をする人たちなど私には理解できません。(中略)ドアは絶えず主役と他の登場人物の間に、主役たちの間にあります。ドアは閉められることはありません。ドアは開かれ、こじ開けられるために作られています。そして破られるために。ドアは一回閉じられれば良いようには作られていません。」ドアは『ラ・ピラート』では部屋と廊下を繋ぎ、運動を導き入れている。一方ドワイヨンの映画におけるガラスは人と人の関係を遮断する。『ふたりだけの舞台』(Comedie!)(一九八七年)では、アラン・スーションジェーン・バーキンを隔てるものとしてガラス窓が登場する。嫉妬に狂いプールに狂言的に飛び込んだジェーン・バーキンは、ガラス窓越しにアラン・スーションに話しかけるが、彼に気持ちは通じない。ドアが感情の交流を押し進める一方、ガラスは悲しみに随伴するものである。ドワイヨンの映画の場合、ガラスは水滴を呼び寄せる。先程の『ふたりだけの舞台』のガラス窓のシーンでもジェーン・バーキンはプールに入ったあとで濡れている。そして、『イザベルの誘惑』のリオが悲しみに暮れている時に窓を伝う水滴。また、『ラ・ピラート』で、車での逃避行の途中、次のガソリンスタンドでアンドリューへ電話することをキャロルに命じられたアルマが、悲しい気持ちになっているときも、車の窓を雨が伝っていたではないか。どちらも恋人からの拒絶を受けたあとのことである。
 交流を拒絶するものとしてガラスが現れる。それは透明で通過できそうに見えて、人を拒否するものである。それに対し、扉は光を遮断し、通過出来ないように見えるが、その開け閉めが動きを誘発する。入れかわり立ちかわりの人の出入り、感情の爆発、登場人物による廊下の駆け抜け、悲しみのあまりのすわり込みと続く。ドアは動きを導入する。

2.二極間の揺れと不安定さ

『ラ・ピラート』でキャロルとアルマは、パリのホテルで何故それぞれ別の部屋を借りているのか。また、どうしてダンケルクのホテルでも入り口が別々の続きの部屋を借りているのか。やはり、二極間での揺れを表しているとしか思えない。

不安定性を旨とするドワイヨン的登場人物は、不安定な物を好む。『15歳の少女』でジュリエットはトマの父を伴って堤防の上をバランスをとりながら歩いていたし(このシーンはトリュフォーの映画のあるシーンを思い出させずにはいない)、イビザ島でもトマの父と連れの女性はプールの縁を歩いている。そして、ここでもジュリエットはテラスの縁も歩いている。トマとジュリエットがハンモックで会話するシーンもあり、まるで不安定性を楽しんでいるかのようである。

『ラ・ピラート』の中の「少女」も、宙づり状態への親近性を持っている。アルマを探しにきたナンバー5を彼女のいるホテルに誘うときも、彼女は車のボンネットの上に乗っている。また、ダンケルクのホテルの部屋の中でも机の上に腰掛けているし、フェリーのバーでもカウンターの上に腰を掛けている。

ドワイヨンの映画に出てくる車もまた、二つの距離の間を運動する宙づりの物体に他ならない。『ピストルと少年』は到達点が最終的に警察署だと分かっているにも係わらず、車の走行で延々とそれを延ばし続けたではないか。『ラ・ピラート』のキャロルも車の中が一番くつろげる場所の様に見える。ダンケルクに着く間際にも、ホテルに「車で直接入れたらいいわ」と言っている。この映画のラストで、空間を滑走する車を乗り入れた場所が、海を浮遊するフェリーの中というのが、いかにもという感じがする。不安定性がここで頂点に達するのだ。ドワイヨンが、彼の映画のなかで子供と青年期の中間の俳優を多用するのも、その移行期の揺れを愛するからに他ならない。先述した様に二つの部屋の間の揺れがあり、さらに車での移動により場所を変えていく。アンドリューの家での感情の対立(それのみでは物語が進展しないが)、パリとダンケルクと言う二箇所のホテルで反復され、さらにフェリーで反復される。フェリー上での『ラ・ピラート』のラストは、不安定性が増大し、往復運動の揺れが最大限となり緊張感が臨界に達する。それはまた、フランス語を喋るキャロルと英語を話すアンドリューに引き裂かれたアルマが、その境界上(英仏海峡)で引き裂かれている姿でもあるのだ。

3.介在者あるいは分身

 動きを導入するためには、部屋の往復、車での逃走の他に介在者が必要となる。ドワイヨンの映画はどれも介在者が登場するが、『ラ・ピラート』はその純粋な形を示していると言える。トリオをなすアルマ、キャロル、アンドリューの会話はほとんど感情の激発でしかない。物語を動かしているのは、未来を全て見透かしている、視線の化身のような「少女」と、ゲームに参加する能力を持たないため他人を操ろうとするナンバー5である。ナンバー5は、「彼はカタストロフが来る事を望むが、演出の結末に関わることは出来ない。ナンバー5という登場人物は大きなことは操作できないにも関わらず、自らを操作者と考えており、それが停止しないようにする」様な人物である。アルマが渡した車のキーをキャロルが捨てるが、そのキーを拾い二人の仲を混乱させるのも、ダンケルクの全てのホテルに電報を打つのもナンバー5である。そして「少女」は、キャロルを彼女自身の欲望通りに行動させ、ナンバー5をアルマのいるパリのホテルに誘い、ナンバー5とアンドリューをダンケルクに呼び寄せる。トリオは自分の思いをこれら二人を通して代わりに表現してもらっている。

 キャロルはまるで「少女」の指示を仰いで行動しているかのようである(例えば、冒頭のアルマと会った後の、玄関前でのキャロルと「少女」の頷き合いを見よ)。フェリー上でキャロルをアルマに会いに行かせるのも彼女である。そして、銃撃のシーンの舞台となる階段にアルマを導くのもこの「少女」である。この二人がトリオの感情の結び目を解けないほどに混乱させていく。そして、アルマのかける電話、アンドリューの渡すメモがそれを助長させていく。『イザベルの誘惑』の電話に見られる様に、それは関係を簡素化するどころか、かえって複雑性を増していく。

 これら二人が介在者でしかないことは、この映画の一つのクライマックスの一つをなすトリオの対決のシーンに現れている。ダンケルクのホテルに着いた、アンドリューとナンバー5がアルマたちの部屋に向かうが、立ちふさがる「少女」はナンバー5に抱きかかえられ、三人(アルマ、アンドリュー、キャロル)が対決する部屋へは入れず、観客としてそれを傍観する立場に置かれてしまう。「少女」とナンバー5はは、解説を加えつつ三人の行為を見守るしかない。彼らは他の三人の分身だと言っても良いだろう。しかし、アルマへいろんなものを届けつつラストに導くのも、この「少女」である。つまり、アンドリューの代理で手紙を届け、ナンバー5の代理でナイフを届け、そして最後に銃弾を届ける。

 「アルマの様な人物はその分身以外と対話できないと思える」とドワイヨンは述べている。「少女」はアルマの若いときの分身であり、彼女の良心の呵責も表している。アルマが他の四人を全て誘惑する様に、「少女」も他の登場人物を誘惑する。彼女は全ての人物を一回は抱擁している。もっとも目立つアルマに対する抱擁は言うまでもないが、目立たない様にではあるが、アンドリューとナンバー5も抱いている。アンドリューは、ナンバー5とキャロルがアルマを探しにいき、ホテルのバーに残された「少女」と紙幣でゲームをしている時に抱擁されている。また、ナンバー5はラストの銃撃のシーンの後に抱擁されている。キャロルはラスト直前の甲板のシーンでアルマのナイフを取ろうとするシーンで、「少女」に背中から抱きかかえられている。しかし、抱擁している瞬間、「少女」はその行為自体を望んではいないのだ。それはアルマが四人全てに抱かれながら、彼(女)らを愛せないのと対照をなしている。この「少女」の分身性が端的に現れているのが、ダンケルクのホテルで、彼女が一人鏡に向かうシーンである。ここで彼女の後ろ姿と、鏡に映った正面像が捉えられている。鏡像に彼女は銃を向け、こう言う。「すぐに彼女(=アルマ)と同じよ。『好きよ、嫌いよ(Je t'aime,je t'aime pas) 』って」アルマの分身たる彼女がその分身たる鏡像に銃を向けている。そして、せりふ自体もJe t'aime,je t'aime pas という鏡像的なものとなっている。五人がそれぞれの分身の様に動いており、その愛憎関係は複雑にもつれ合っている。だから、トリオ(アルマを中心とするアンドリューとキャロルの関係)とトライアングル(アルマを中心とする分身ナンバー5と「少女」)の両方の中心となる鏡(=アルマ)を破壊して、結び目を解かなければならないのだ。

 

4.女優と男優

 ドワイヨンは自らの映画の題名に女性形を多用するように、女優をひどく好んでいる。例えば、それは『恋する女』(L'Amoureuse) (一九八七年)でナンテールの演劇学校の生徒のうち数人を除いて全て女優を使ったことにも現れている。彼は女優の方が男優より好きな理由を次のように語っている。「男優は大衆に対して持ってるイメージが妨げになる。そして、彼らはそのイメージから離れることをためらうんだ。女優は不安定で流動的で、自分自身の中の漠としたものを受け入れやすい。」「疑う事を知らず、自らの揺るぎないことを誇示するような男性には私は興味はない。」こういった不安定性や可塑性においてドワイヨンは女優に引きつけられている。男優を使う場合でも、不安定な男優を選んで使っている。例えば、『15歳の少女』のメルヴィル・プポーがそういった俳優である。ドワイヨンは映像面で不安定な形象を好むとともに、俳優も不安定性の中に置かずにはいない。『ラ・ピラート』の冒頭で、車から降りたアンドリューがアルマにいきなり足を掛けられて転ぶのもそういう脈絡からであろう。また、ナンバー5がホテルで「少女」に靴を取られるのも、安定性を持って地面に足をつけるのを拒まれているからに他ならない。『家族生活』(La Vie de famille )で、ローラースケートをやっているエマニュエル(サミー・フレイ)が倒れるのも同様である。ドワイヨンの考え方はこうだ。「私は安穏としている俳優を見たくない。ボナフェやフレイが途方に暮れ、取り乱した様な感じを持つときこそ、コントロールを失い、横滑りする彼らを私は愛するんだ。彼らが私を魅了するのはその時であり、彼らの見せかけの姿が剥がれ落ちるのはその時なんだ。撮影の終わりごろ(中略)俳優たちは私にユーモアを込めて言う、『僕は方向感覚がなくなって、穴にはまった様な感じになっているんだ。それこそあなたが気に入るものじゃないのか。』」「俳優たちは、自分たちを動揺させるといって私を非難する。」とも言っている。こういった時点で俳優たちの感情が露になるのを待ち構えているのだ。

 「私は、女性の登場人物を俳優にし、男性の登場人物を監督にする傾向がある。」と自分の映画における女優と男優の役割を説明している。『家族生活』のエマニュエルが、娘エリーズ(マラ・ゴイエ)の写真に執着する様は監督のそれである。『ラ・ピラート』の中でも、パリのホテルで、「少女」がナンバー5の持ち物検査をして、彼からアルマの写真を奪うシーンでは、写真が所有を表すと言及されている。また、『15歳の少女』では監督自身がトマの父親の役で登場し、息子の恋人に視線をまとわりつかせ、ついには彼女に拒否されている。これも、女優に視線を向ける監督を表しているものである。とすれば、『ラ・ピラート』のアルマ、アンドリュー、キャロルの対決の場面は、ジェーン・バーキンマルーシュカ・デートメルスにラブシーンを演技指導をするドワイヨンの映ったスティル・を思い出させずにはおかない。ディレクターズ・チェアよろしく、ソファーに座ったアンドリューは彼女たちに口にキスをしろ、喉にキスをしろと命じるのだ。そして、彼女たちはラブシーンを再現し、抵抗する。『家族生活』のマラ・ゴイエの抵抗といい、『15歳の少女』のジュディット・ゴドレーシュの抵抗といい、ドワイヨン自身が実際にそのように演技指導しているかどうかは分からないが、鬼気迫るものである。この再演は『ふたりだけの舞台』でジェーン・バーキンアラン・スーションに再演させたものであり、『イザベルの誘惑』でブリュノがイザベルに再現させたものである。それは、強制する者の妄想を投射して再演させたものである。「あるべき現実」が、ここで演じる者により模倣される。演技者にとって、それは偽りの自己でしかないが、それ自身が映画の中の演技の演技でもあろう。

5.第三者の影あるいは脅かす音

『15歳の少女』で三人の登場人物はそれぞれの影を意識しながら行動していたし、『ふたりだけの舞台』ではジェーン・バーキンの嫉妬には不在の第三者たる「家」が影を落としているが、それでは『ラ・ピラート』ではどうなっているのか。アルマとキャロルの二人の関係を見ていこう。彼女たちの関係は絶えずアンドリューの影に脅かされている。そして、ドアの向こうから聞こえる音によって、二人の抱擁は絶えず中断させられるのだ。冒頭のアルマの家でのアルマとキャロルの最初の抱擁では、アンドリューのアルマを呼ぶ声が邪魔し、二回目の抱擁では、アンドリューの顔を映したあとのドアの閉まる音が、二人の恐怖心を煽る。パリのホテルでの抱擁でも、黒人のホテルマンが酒を持ってくる際のノックと「少女」が急を知らせるノックが二人を戦かせる。そして、ダンケルクのホテルから消えたアルマを探すキャロルが、自らの好む環境である車の中で物思いに耽っているときに、それを覚ますのもナンバー5のクラクションである。そして、この二人を分かつのが、最後の音である銃声であるのは言を待たない。

6.競売にかけられた愛

 この映画の中心に居るアルマは、黒っぽい服を着た他の登場人物の中で一人だけ白い服を着ており、光と他の人々の愛情を一身に集めている(但し、アルマの分身たる「少女」のみは白いセーターも着ている)。冒頭のシーンからして、アルマの帰りを待つ「少女」とキャロルが乗る車の前に、アルマが現れるや否や、「少女」が車のヘッドライトをつけ、彼女を照らしだす。また、五人のうちの三人の居る場所に、残りの二人が現れるときはそれが儀式であるかのように、車の中の一人が他の一人に煙草の火を付ける。先程の冒頭のシーンではキャロルが「少女」に火を求めているし、アルマとキャロルと「少女」のいるダンケルクに、ナンバー5とアンドリューが到着したときは、アンドリューがナンバー5に火を付けてもらっている。この様に光と愛情を一身に集めるアルマを中心として物語は展開する。しかし、その愛情を得るための賭金はラストに向かうにつれ、高くなりついには彼女を殺すことがその賭金となる。人から愛されることを望み、自ら愛さない様な人間は、小学校の歴史の本で見た中世の処刑での様に八つ裂きにされるべきだという強迫観念をドワイヨンは持っている。そのためには四頭の馬が必要なのだ。後ろの二頭の馬車こそ「少女」とナンバー5である。ラストの銃撃のシーンでは、アルマをアンドリュー、キャロル、ナンバー5の三人が押さえ、それを「少女」が撃つ。それはまるでアルマを磔刑にしているかのようである。そして、感情はこの五人の中で次から次へと移っていく。
 

『ブレイキング・ニュース』

アパート群と青空が仰角でとらえられ、その後角度を下げていくカメラは一つの通りを映し出す。鬚面で長髪の一人の男がそこを歩いている。その男があるアパートの階段を登っていくと、カメラはクレーンでアパートの外側から上がっていき、一つの部屋が捕らえられる。ドアがノックされ先ほどの男が中に入ってくる。強盗団と思しき男たちが、なにかの準備をしており、ドアから外へと出始める。その中の一人の男が窓から外を眺めると、カメラはアパートの壁伝いに降下し、一階の庇から落ちた新聞紙を追う。新聞紙は一台の車のフロントガラスに落ち、中の人物がそれを拾う。それは待ち伏せしている刑事である。一回転して向きを変えたカメラは階段から降りてきた強盗団を映し出す。彼らが乗車するための車がそこへ来るのだが、一方通行違反だとして、別の警官達がそれを咎める。車の周りを旋回したカメラは、近所の人が喧嘩を始めた様を映し出す。一人の警官がそちらに気をとられている隙に、もう一人の警官が車の中の不審なバッグを問いただす。その瞬間ギャングの拳銃が火を噴き、二人の警官は倒される。待ち伏せしていた刑事達も発砲し、激しい応酬となる。左右に首を振るカメラは、やがてクレーンで再び上昇して、アパート二階から発砲するギャングの一人を捕らえる。この男がここから通りに置かれた箱へと飛び移り、さらに通りへと降りる様をカメラは追っていく。ギャング達は新たに来た警察の車を奪い、逃走していく。ここではギャングを俯瞰で捕らえていたカメラが降下しつつ、後退していき最後はロングショットとなる。ここまでが8分の素晴らしいワンショット・ワンシークエンスで撮影されている。
ギャングに銃を向けられた一人の警官が手を挙げて命乞いをし、それを報道カメラが撮影したため、香港警察は面目を失うこととなる。指揮官の任をまかされたレベッカ(ケリー・チャン)は、PTUにワイヤレス・カメラを装備し、犯人逮捕の瞬間を撮影して、警察の名誉を回復しようとする。レベッカの命令を聞かず暴走するCID(重犯罪特捜犯)の警部補チョン(ニック・チョン)の行くところには、必ずギャングが現れる。それは彼の犯人調査の嗅覚がいいというより、犯人グループと似ていることによる。犯人のアジトで見つかった焼き芋を彼も食っているのだ。チョンは犯人の潜むアパートを見つけるのだが、ギャング団はある一室の住民を人質に取り篭城する。ここでひょんなことから別の殺し屋も合流して立て篭もることになる。ギャングと殺し屋は同じ食事をすることにより、連帯を強めていく。一方警官と報道陣に配られる弁当は白々しいものとしてうつる。メディアを使ったレベッカとギャングのボス、ユアンリッチー・レン)の虚々実々の駆け引きも素晴らしい。ギャング団の影とも言えるチョンも、アパートのいたるところで熾烈な銃撃戦を繰り広げる。警察側のメディア戦略の部分のみ弛緩しているが、それが空転しているのを示すためであろう。脚本の見事なテンポのいい傑作。

『PTU』

香港の夜の飲み屋で一人の若い男が食事をとろうと机についている。そこにマフィアのボスの息子マーと四人の仲間が入ってくる。先ほどの男の隣のテーブルを案内された五人は、そのテーブルが気に入らないのか、男が座るテーブルに移動してくる。マフィアに恐れをなした男は五人が最初にいたテーブルに移動する。そこに組織犯罪課の刑事サァ(ラム・シュー)が入ってくる。彼は嫌がらせのように、マフィアのいるテーブルに座る。マフィアは刑事を避けるため、元いたテーブルに移動する。若い男は更にテーブルではないカウンターへ移動する。ここでテーブルの交換が行われ、交換の主題系が動き始める。続いてマーの携帯が鳴り、その後4人の部下に指示を与えると彼らは席をたつ。今度はサァに電話が入り、警察の指示を受けた彼も出て行く。更に若い男の携帯が鳴る。一般人らしからぬ「了解」の言葉とともにこの男は背後から刀でマーを突き刺す。ここに模倣の主題系も開始される。「交換」と「模倣」の主題系に参加したこの男は、殺し屋として物語にも組み込まれることとなろう。
この殺人と同時並行的にサァはマーの部下に襲われ、拳銃を盗まれることとなる。その際、車にペンキをかけられたサァは自らの拳銃の代わりに入手したモデルガンに色をつけ、この動作を模倣することとなろう。その後、マーの殺人現場にかけつけたサァは、証拠物件となるマーの携帯にかかってきた電話を聞くために、その携帯を拝借するが、自分の携帯と間違えて戻してしまう。サァの拳銃探しに協力することとなるPTU(機動隊)はマーの手下の情報を聞き出すために、路上とマーのアジトで二度足を使って相手を脅すことになろう。一方、マーの殺人事件を追うCID(特捜課)は動作不審なサァをマークし始める。一方、マーの父ハゲと対立するギョロメはサァに助けを求め、ハゲは盗まれた拳銃と引き換えにギョロメをおびき出すことをサァに迫る。公衆電話から電話をするサァを、リュックを背負った男が模倣し誰かに電話をかける。この男も物語に参入するのであろうか。ラストで広東道(カントンロード)へと進む行動を全ての登場人物が模倣し始める時、「模倣」の主題はどのような結末をとるのであろうか。
深夜の香港という猥雑な舞台を、包帯をした鬚面のサァが黄色いペンキをかけられた車で走り回るというむさ苦しい映画だが佳作。

『百年恋歌』

1966年の「恋の夢」、1911年の「自由の夢」、2005年の「青春の夢」の三部からなる。
「恋の夢」の冒頭、横に長い窓が映り、右下にスー・チー舒淇)の横顔が見える。カメラはティルトダウンし、彼女の上半身を捉えていく。続いてカメラは左下へと移動し、ビリヤード場で玉を撞いているチャン・チェン張震)が捉えられる。玉撞き棒を持った手が写り、カメラがティルトアップするとその人物の顔が映し出される。カメラは左から右へと移動するチャン・チェンを追い、上昇して再びスー・チーを映し出す。このカメラのティルトアップが、この第一部を規定していくことになろう。続いて、自転車をこいでいる人物の足元が捉えられ、カメラがティルトアップしていくとチャン・チェンの姿が現れる。チャン・チェンは手紙をビリヤード場に運んできたのだ。ビリヤード場の若い女性(春子)が手紙に目をやる。ここでもカメラは手紙から女性の顔へと上昇するのだ。チャン・チェンは近くの港から船に乗る。彼は船の舳先に後ろ向きに座っている。反対方向からもう一隻の船が現れ、この船とすれ違っていく。新たな船にはスー・チーが乗っている。この船の交錯を捉えた映像は見事である。その後、ビリヤード場の戸口にスー・チーが現れるのだが、このショットはホウ・シャオシェン得意のロングショットで捉えられている。そしてスー・チーはこのビリヤード場で働き始める。ふとした弾みで引き出しの中の手紙を発見し、彼女はそれを読み始めるが、ここでもカメラは上へと移動する。手紙はチャン・チェンのもので、彼は徴兵にとられる前にビリヤード場に再び姿を見せる。ここでチャン・チェンスー・チーは交流を深めていくのだが、ここでのリー・ピンビンのカメラの動きは見事である。カメラはティルト、パンを繰り返し、そのフレームをスー・チーとチャン・チェンが出たり入ったりするのだ。窓にスー・チーチャン・チェンが相似的に映る様も二人の愛の高まりを物語っている。
チャン・チェンは休暇にビリヤード場に戻るが、スー・チーは既に他の場所に移っている。チャン・チェンは彼女の後を追い、彼の行程を示すかのように地名の書かれた道路標識が映し出される。いくつかの場所を訪れるが、そこに彼女はいない。チャン・チェンの足が写され、カメラがティルトアップして彼の上半身が切り取られる時、ここまで映画を見てきた観客はスー・チーの居場所が近いことをすぐさま感じ取る。そこは彼女の実家で、スー・チーからチャン・チェンに宛てられた手紙を見た母親は、実家に届いた手紙の彼女の住所をチャン・チェンに示すであろう。ついに再会を遂げた二人は、ビリヤードに興じる一人の客越しにカメラで捉えられる。ここでは二人の間に別の人物が入っているが、夜、バス乗り場へ向かう二人の間には一体何が挟まれているのであろうか?
しかし、この映画の白眉は、サイレント映画の様に撮られた「自由の夢」である。芸妓(スー・チー)と外交官(チャン・チェン)の恋愛が青白い画面ないしは琥珀色の画面の中に映し出される。第二部では娼館の廊下が縦構図で捉えられ、これが時間の経過を示す句読点として機能している。娼館のある部屋をカメラが左から右へとパンしていくと、スー・チーの姿が捉えられる。彼女を追って今度はカメラが左から右へと移動すると今度はチャン・チェンの姿が目に入ってくる。彼は左側の盥で顔を洗い、吊るされた手拭で顔を拭うだろう。その間スー・チーは左後方の衝立の後ろへと一瞬隠れる。チャン・チェンは右へと移動し腰をかけ、彼を追ったスー・チーも向かい合って腰掛ける。第二部のパンの使用を宣言した見事な導入部である。スー・チーがチャン・チェンの髪を梳き、上着を着せ、辮髪を外へと出す仕草に二人の関係は無言のうちに表されている。しかし、仲良さ気に向き合っていた二人が、最後には顔をそむけあい(座っているチャン・チェンの後ろにスー・チーが背中を向けて立つのだ)、芸妓の歌う南管が悲痛な響きをあげる。何人かの男性が円卓を囲み茶を嗜んでる近くで、スー・チーが南管を歌っているのだが、最初の場面では彼女の方を振り向いたチャン・チェンは、第二部ラスト間際では彼女に一顧だにしない。そして、今までパンを繰り返していたカメラがラストに何かを捉えるとき、カメラがまたしてもティルトアップしていく様を人は見るだろう。その何かとは第一部でも重要な役割を果たしていたものである。
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』に比すべき陶酔感を味わえる傑作。

「ディーバ」からはじまるー声が支配する

80年代初頭に、フランス映画はある種の傾向が支配する。68年世代のユスターシュ、ピアラに代わり非政治的な世代が台頭する。それが、ジャン=ジャック・ベネックスであり、リュック・ベッソンでありレオス・カラックスである。彼らはコッポラやファスビンダーらの影響を受け、ミュージックビデオ、TVコマーシャル、ファッション写真にインスパイアされた映像を撮る。伝統的なプロットラインにハイテクノロジーなガジェットを配し、目も眩む映像で映画を満たしている。とりわけ、ベッソンとベネックスは広告とビデオのスタイルを使い、映像重視の映画となっている。善し悪しは別にして、その極点にあるのは、せりふを極力排し、青い海とそこに住む生物の映像で全編綴られるベッソンの『アトランティス』と言って良いかもしれない。現在の日本の映画作家の中でも岩井俊二は、テレビドラマ、CFの出身であり『Love Letter』『FRIED DRAGON FISH』などの物語より映像を重視する作風が、ベネックスと類似していると言ってよいかも知れない。
 『ディーバ』はベネックスの長編第一作であるが、既にこれらの特徴が見て取れる。ハイパーリアリズムやパンク的なスタイルと言った現代性や他の映画からの引用(地下鉄の通風孔でスカートのめくれ上がるシーン)が見られる。これは、近代社会がスタイル化されたイメージと、広告と映画の虚構が作りだした神話に支配されていると言うベネックスの認識に基づくのだろう。『ディーバ』の中でも、登場人物たちはローレックス、ナグラシステム、ロールス・ロイスというブランド名でコミュニケートする。こう言ったイメージが溢れる世界の中にベネックスは肉声を導入する。『ディーバ』の物語は、主人公ジュールが歌手シンシア・ホーキンス(=ディーバ)の歌うオペラ『ヴァリー』のアリアを録音することにより始まる。シンシアはコンサートによる瞬間的な出会いを尊重し、歌の録音を許さない。人々はこの肉声に魅惑され、その所有を試みる。しかし、冒頭でクレジットに被さって流れる曲は、コンサート会場から音が出ているかのように見えて、その実ジュールが録音したテープから出ているものである。彼がレコーダーをオフにするとたちまち音は消えてしまう。録音された音の支配はそれだけ強いと言えよう。声は、シンシアの美しい声のみではない。錯綜した二つの物語の展開にはもう一つの声が必要であり、それは娼婦ナディアの真実を語る声である。ともに私的なこれらの声は公にされてはならない。シンシアの声の海賊版が出回れば、彼女の声の価値は減り、単なる商業的歌手に堕してしまう。また、ナディアの声が公となれば、サポルタ警視の不正が白日の下にさらされることとなる。これら二つのテープを如何に奪うかで物語は起動する。ところで、『ディーバ』の登場人物たちはそれぞれ何か物を奪っている。ジュールは冒頭で、シンシアの声を録音して盗み、服も盗んでいる。ジュールを助けるベトナム人の少女アルバはレコード、キャビア、ローレックスの時計を盗んでいる。台湾人の業者は、シンシアのレコードの海賊版を出そうとしている。サポルタは人身売買をしているのだから人を強奪していると言える。こういった盗まれた状態を元の状態に戻そうしてストーリーは展開する。ナディアの声を求めて、サポルタの警視としての部下の警官達と、彼のギャングとしての手下のカリブ海とスキンヘッドが追い、シンシアの声を巡っては台湾のブローカーが追う。この二つのチェイスは、ゴロディシュのしているジクソーパズルのように錯綜しいる。そして、彼のパズルの図柄の海鳥が大きな波に脅かされている様に、ジュールもまた影の追跡者に脅かされている。そして二つの流れは幾つかの点で交差する。明白な事だが、一つ目は追われているナディアがテープを、ジュールのオートバイの袋に隠すシーン。二つ目はジュールが友人のバイクを借りる際に、ナディアのテープを間違えて取るシーン。最初、画面奥へと出発したジュールは、手袋を忘れたことに気づき、手袋とテープを取ると今度は逆方向に向かって出発する。画面奥と手前が逆になり、別の路線に転轍されるのだ。さらに、ゴロディシュとサポルタがテープを取引するシーンでも、サポルタの車のシトロエンへの交換、さらにゴロディシュを殺そうとしたサポルタは間違えて台湾のブローカーを爆死させてしまう。この取り違えのテーマにサポルタが偽造したナディアのテープを加えてもよい。錯綜した二つのチェイスを一方ではサポルタが操作しようとし、もう一方ではゴロディシュが支配しようとする。前者は取り違えを助長し、後者は元の状態を復旧しようとする。そして、最終的にはゴロディシュがジクソーパズルを解くように、全ての謎を解きほぐす。ここら辺の展開は極めてコミカルで、電話ボックスまでのかなりの距離の道のりを、ゴロディシュがすぐ車を運転して到着したり、かなり高い位置に居たゴロディシュがいきなり下にいるサポルタの目の前に現れたりする。
 色の点に関してもこの映画は極めて人工的に作られている。安全な場所は青色が支配し、危険な場所は黄色が支配する。ジュールが逃げ込むゴロディシュの部屋は青色が基調をなし、彼自身も青色の服を着ている。それに対しサポルタが指示をだす警察の建物は黄色い色が支配する。ジュールは自らの黄色いバイクに危険を感じて、友人の赤いバイクに代える。また、ジュールがシンシアとパリの街を歩くシーンでは画面は青く、翌朝シンシアがベットでジュールがソファで寝ているシーンも青い色が基調である。しかし、そこに台湾のブローカーが現れると徐々に黄色が画面を支配しはじめる。パリの夜の街は黄色い明かりが支配し、追われているジュールは娼婦の部屋(青いライトがある)に逃げ込む。だが、ジュールが青いライトを消した後に彼に危険が迫ってくる。彼は廊下に逃げるがそこは黄色い明かりで照らされている。そこにカリブ海とスキンヘッドが迫ってくる。ジュールは彫刻のある青い空間に逃げ込み追手をやり過ごす。しかし、逃げ込んだ駐車場は再び黄色い光が支配しジュールは追い詰められる。ようやくゲームセンターに逃げ込んだジュールは青い光を発するゲームのモニターの前で危機を脱する。さらに、黄色い光の支配する電話ボックスで電話するジュールは危機一髪で、スキンヘッドの魔の手からゴロディシュによって助けられる。その場を脱出する時に、ゴロディシュがジュールに青いコートをここでも着せている。途中、公園でジュールを治療するが、ここの色は青に近い緑である(『IP5』の緑を想起させる)。避難場所は灯台であり、ここは安全な場所であるが例外的に黄色である。しかし、ここでも安全性を示す、青い海が近くにある。
  前に述べた二つのチェイスの他にもう一つの追求がある。それは、最初の方で述べたように、ジュールによるシンシア(=ディーバ)の声の所有であり、シンシアに対するジュールの恋愛である。肉声への執着があるのだが、ジュールはそれを録音して保存しようとする。そして、ジュールが娼婦と寝る際にも、ベット近くの二体のブロンズ像のそれぞれにジュールのヘルメットとシンシアの服を被せてある。さらに娼婦はシンシアの服を身にまとう。こういった間接的感情を経て、彼はついに服を返して、シンシアと会うこととなる。そして、ピアノの弾き語りを直接聞くことになる。ここに一回限りの出会いがあるのだ。しかし、ジュールの部屋の壁絵が彼の運命を暗示したり、車の絵に車の音を被せたり、置物の鳥に鳥の鳴き声を被せたりするベネックスはリアルさをそう単純には考えていないだろう。『ディーバ』はロケを多用しているが、彼の人工性への趣味は、次の作品『溝の中の月』でチネチッタのセットを使って全面的に展開する。前述した色彩の対比、あるいはシンシアの歌うオペラとスキンヘッドが絶えずイアフォンで聞くキッチュな音楽の対比等も人工的二元的な世界を構成している。ゴロディシュが玉葱を切るときに着ける水中眼鏡とシュノーケルも間接性を表している。ラストでシンシアが歌っているシーンでも、彼女の歌に続けてジュールの録音した声が続くのだ。映画中の台詞とは逆に、作り物のイメージへの偏愛の方が際立つ様な気がする。ゴロディシュが自らの「悟り」について説明する「俺の悟りはバターを塗る瞬間の禅の境地。もはやナイフもパンもバターも存在せず運動だけ。」と言う台詞も斜に構えて言っているように見える。ベネックスがステレオタイプを多用しているとすれば、それはそういう現実を飽きることなく薄っぺらに列挙しているためであろう。全ては表象のみと言っているかのようである。シンシアのライブでの声も映画のために録音されたものでしかない。かえって、シンシアがまだ一回も聞いたことのないジュールの録音した声の方が、頭蓋骨を反響して響いてくる聞き慣れた声とは違う不気味なものとしてシンシアを揺さぶるものとなるであろう。それはステレオタイプのイメージには収まりがつかないものである。<肉声>が支配すると言うより、ベネックス的に見れば、「録音された<肉声>」が支配すると言った方が良いであろう。そして、ディーバへのジュールの「欲望」からすべてが始まるのだ。

『帰れない二人』

リャオ・ファンとチャオ・タオの乗った車がバイクに囲まれる。車から飛び出した運転手は若者達にめった打ちにされる。車のガラス越しに事態を見ていた前者はガラスを破って鉄拳を見舞うが、多勢に無勢ゆえに立体エンブレムにしたたか頭を打ちつけられる。後者がやむにやまれず車を出て、銃を放ち彼を助けるだろう。障壁となるガラスを破り一体化せんとする意志がみなぎっている。そして女渡世人の誕生も告げている。しかし、彼女はペットボトルを持った女渡世人なのだ。彼女を彼と隔てる自動扉にはペットボトルを差し込むのだし、持ち物を盗んだ黒い服の女性にはペットボトルで殴りかかるだろう。 列車の中で知り合ったシュー・ジェンと手を繋ぐのもペットボトルごしなのだし、眠っている彼のもとを去るのもペットボトルをリュックにしまう動作ですぐわかる。 リャオ・ ファンを賭けで負かし罵倒した男を彼女が陶器で殴るのもこの系列に属する。彼女は渡世人の義理を尊重する。しかし、彼はプライドからそれを捨て、彼女をまたしてもガラス越しに残すのだ。

2012年蓮實重彦氏ベスト10

film comment誌
2012年蓮實重彦氏ベスト10

『灼熱の肌』(フィリップ・ガレル)A Burning Hot Summer
『メカス×ゲリン 往復書簡』(ジョナス・メカスホセ・ルイス・ゲリン)CORRESPONDENCIA
ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)HOLY MOTORS
『J・エドガー』(クリント・イーストウッド)J. EDGAR
ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン)MOONRISE KINGDOM
アウトレイジ ビヨンド』(北野武)Outrage Beyond
『贖罪』(黒沢清)Penance
『Playback』(三宅唱)Playback
Virginia/ヴァージニア』(フランシス・フォード・コッポラ)TWIXT
『戦火の馬』(スティーヴン・スピルバーグ)WAR HORSE