『ラ・ピラート』

『ラ・ピラート』(ジャック・ドワイヨン)

1.扉とガラス

 ドワイヨンにとって扉は以下のようなものである。「かって、私はあるドア・メーカーにスポンサーになって欲しいと願い出たことがあります。それほど私はドアが好きなのです。(中略)ドアのない四○人共同の事務スペースで仕事をする人たちなど私には理解できません。(中略)ドアは絶えず主役と他の登場人物の間に、主役たちの間にあります。ドアは閉められることはありません。ドアは開かれ、こじ開けられるために作られています。そして破られるために。ドアは一回閉じられれば良いようには作られていません。」ドアは『ラ・ピラート』では部屋と廊下を繋ぎ、運動を導き入れている。一方ドワイヨンの映画におけるガラスは人と人の関係を遮断する。『ふたりだけの舞台』(Comedie!)(一九八七年)では、アラン・スーションジェーン・バーキンを隔てるものとしてガラス窓が登場する。嫉妬に狂いプールに狂言的に飛び込んだジェーン・バーキンは、ガラス窓越しにアラン・スーションに話しかけるが、彼に気持ちは通じない。ドアが感情の交流を押し進める一方、ガラスは悲しみに随伴するものである。ドワイヨンの映画の場合、ガラスは水滴を呼び寄せる。先程の『ふたりだけの舞台』のガラス窓のシーンでもジェーン・バーキンはプールに入ったあとで濡れている。そして、『イザベルの誘惑』のリオが悲しみに暮れている時に窓を伝う水滴。また、『ラ・ピラート』で、車での逃避行の途中、次のガソリンスタンドでアンドリューへ電話することをキャロルに命じられたアルマが、悲しい気持ちになっているときも、車の窓を雨が伝っていたではないか。どちらも恋人からの拒絶を受けたあとのことである。
 交流を拒絶するものとしてガラスが現れる。それは透明で通過できそうに見えて、人を拒否するものである。それに対し、扉は光を遮断し、通過出来ないように見えるが、その開け閉めが動きを誘発する。入れかわり立ちかわりの人の出入り、感情の爆発、登場人物による廊下の駆け抜け、悲しみのあまりのすわり込みと続く。ドアは動きを導入する。

2.二極間の揺れと不安定さ

『ラ・ピラート』でキャロルとアルマは、パリのホテルで何故それぞれ別の部屋を借りているのか。また、どうしてダンケルクのホテルでも入り口が別々の続きの部屋を借りているのか。やはり、二極間での揺れを表しているとしか思えない。

不安定性を旨とするドワイヨン的登場人物は、不安定な物を好む。『15歳の少女』でジュリエットはトマの父を伴って堤防の上をバランスをとりながら歩いていたし(このシーンはトリュフォーの映画のあるシーンを思い出させずにはいない)、イビザ島でもトマの父と連れの女性はプールの縁を歩いている。そして、ここでもジュリエットはテラスの縁も歩いている。トマとジュリエットがハンモックで会話するシーンもあり、まるで不安定性を楽しんでいるかのようである。

『ラ・ピラート』の中の「少女」も、宙づり状態への親近性を持っている。アルマを探しにきたナンバー5を彼女のいるホテルに誘うときも、彼女は車のボンネットの上に乗っている。また、ダンケルクのホテルの部屋の中でも机の上に腰掛けているし、フェリーのバーでもカウンターの上に腰を掛けている。

ドワイヨンの映画に出てくる車もまた、二つの距離の間を運動する宙づりの物体に他ならない。『ピストルと少年』は到達点が最終的に警察署だと分かっているにも係わらず、車の走行で延々とそれを延ばし続けたではないか。『ラ・ピラート』のキャロルも車の中が一番くつろげる場所の様に見える。ダンケルクに着く間際にも、ホテルに「車で直接入れたらいいわ」と言っている。この映画のラストで、空間を滑走する車を乗り入れた場所が、海を浮遊するフェリーの中というのが、いかにもという感じがする。不安定性がここで頂点に達するのだ。ドワイヨンが、彼の映画のなかで子供と青年期の中間の俳優を多用するのも、その移行期の揺れを愛するからに他ならない。先述した様に二つの部屋の間の揺れがあり、さらに車での移動により場所を変えていく。アンドリューの家での感情の対立(それのみでは物語が進展しないが)、パリとダンケルクと言う二箇所のホテルで反復され、さらにフェリーで反復される。フェリー上での『ラ・ピラート』のラストは、不安定性が増大し、往復運動の揺れが最大限となり緊張感が臨界に達する。それはまた、フランス語を喋るキャロルと英語を話すアンドリューに引き裂かれたアルマが、その境界上(英仏海峡)で引き裂かれている姿でもあるのだ。

3.介在者あるいは分身

 動きを導入するためには、部屋の往復、車での逃走の他に介在者が必要となる。ドワイヨンの映画はどれも介在者が登場するが、『ラ・ピラート』はその純粋な形を示していると言える。トリオをなすアルマ、キャロル、アンドリューの会話はほとんど感情の激発でしかない。物語を動かしているのは、未来を全て見透かしている、視線の化身のような「少女」と、ゲームに参加する能力を持たないため他人を操ろうとするナンバー5である。ナンバー5は、「彼はカタストロフが来る事を望むが、演出の結末に関わることは出来ない。ナンバー5という登場人物は大きなことは操作できないにも関わらず、自らを操作者と考えており、それが停止しないようにする」様な人物である。アルマが渡した車のキーをキャロルが捨てるが、そのキーを拾い二人の仲を混乱させるのも、ダンケルクの全てのホテルに電報を打つのもナンバー5である。そして「少女」は、キャロルを彼女自身の欲望通りに行動させ、ナンバー5をアルマのいるパリのホテルに誘い、ナンバー5とアンドリューをダンケルクに呼び寄せる。トリオは自分の思いをこれら二人を通して代わりに表現してもらっている。

 キャロルはまるで「少女」の指示を仰いで行動しているかのようである(例えば、冒頭のアルマと会った後の、玄関前でのキャロルと「少女」の頷き合いを見よ)。フェリー上でキャロルをアルマに会いに行かせるのも彼女である。そして、銃撃のシーンの舞台となる階段にアルマを導くのもこの「少女」である。この二人がトリオの感情の結び目を解けないほどに混乱させていく。そして、アルマのかける電話、アンドリューの渡すメモがそれを助長させていく。『イザベルの誘惑』の電話に見られる様に、それは関係を簡素化するどころか、かえって複雑性を増していく。

 これら二人が介在者でしかないことは、この映画の一つのクライマックスの一つをなすトリオの対決のシーンに現れている。ダンケルクのホテルに着いた、アンドリューとナンバー5がアルマたちの部屋に向かうが、立ちふさがる「少女」はナンバー5に抱きかかえられ、三人(アルマ、アンドリュー、キャロル)が対決する部屋へは入れず、観客としてそれを傍観する立場に置かれてしまう。「少女」とナンバー5はは、解説を加えつつ三人の行為を見守るしかない。彼らは他の三人の分身だと言っても良いだろう。しかし、アルマへいろんなものを届けつつラストに導くのも、この「少女」である。つまり、アンドリューの代理で手紙を届け、ナンバー5の代理でナイフを届け、そして最後に銃弾を届ける。

 「アルマの様な人物はその分身以外と対話できないと思える」とドワイヨンは述べている。「少女」はアルマの若いときの分身であり、彼女の良心の呵責も表している。アルマが他の四人を全て誘惑する様に、「少女」も他の登場人物を誘惑する。彼女は全ての人物を一回は抱擁している。もっとも目立つアルマに対する抱擁は言うまでもないが、目立たない様にではあるが、アンドリューとナンバー5も抱いている。アンドリューは、ナンバー5とキャロルがアルマを探しにいき、ホテルのバーに残された「少女」と紙幣でゲームをしている時に抱擁されている。また、ナンバー5はラストの銃撃のシーンの後に抱擁されている。キャロルはラスト直前の甲板のシーンでアルマのナイフを取ろうとするシーンで、「少女」に背中から抱きかかえられている。しかし、抱擁している瞬間、「少女」はその行為自体を望んではいないのだ。それはアルマが四人全てに抱かれながら、彼(女)らを愛せないのと対照をなしている。この「少女」の分身性が端的に現れているのが、ダンケルクのホテルで、彼女が一人鏡に向かうシーンである。ここで彼女の後ろ姿と、鏡に映った正面像が捉えられている。鏡像に彼女は銃を向け、こう言う。「すぐに彼女(=アルマ)と同じよ。『好きよ、嫌いよ(Je t'aime,je t'aime pas) 』って」アルマの分身たる彼女がその分身たる鏡像に銃を向けている。そして、せりふ自体もJe t'aime,je t'aime pas という鏡像的なものとなっている。五人がそれぞれの分身の様に動いており、その愛憎関係は複雑にもつれ合っている。だから、トリオ(アルマを中心とするアンドリューとキャロルの関係)とトライアングル(アルマを中心とする分身ナンバー5と「少女」)の両方の中心となる鏡(=アルマ)を破壊して、結び目を解かなければならないのだ。

 

4.女優と男優

 ドワイヨンは自らの映画の題名に女性形を多用するように、女優をひどく好んでいる。例えば、それは『恋する女』(L'Amoureuse) (一九八七年)でナンテールの演劇学校の生徒のうち数人を除いて全て女優を使ったことにも現れている。彼は女優の方が男優より好きな理由を次のように語っている。「男優は大衆に対して持ってるイメージが妨げになる。そして、彼らはそのイメージから離れることをためらうんだ。女優は不安定で流動的で、自分自身の中の漠としたものを受け入れやすい。」「疑う事を知らず、自らの揺るぎないことを誇示するような男性には私は興味はない。」こういった不安定性や可塑性においてドワイヨンは女優に引きつけられている。男優を使う場合でも、不安定な男優を選んで使っている。例えば、『15歳の少女』のメルヴィル・プポーがそういった俳優である。ドワイヨンは映像面で不安定な形象を好むとともに、俳優も不安定性の中に置かずにはいない。『ラ・ピラート』の冒頭で、車から降りたアンドリューがアルマにいきなり足を掛けられて転ぶのもそういう脈絡からであろう。また、ナンバー5がホテルで「少女」に靴を取られるのも、安定性を持って地面に足をつけるのを拒まれているからに他ならない。『家族生活』(La Vie de famille )で、ローラースケートをやっているエマニュエル(サミー・フレイ)が倒れるのも同様である。ドワイヨンの考え方はこうだ。「私は安穏としている俳優を見たくない。ボナフェやフレイが途方に暮れ、取り乱した様な感じを持つときこそ、コントロールを失い、横滑りする彼らを私は愛するんだ。彼らが私を魅了するのはその時であり、彼らの見せかけの姿が剥がれ落ちるのはその時なんだ。撮影の終わりごろ(中略)俳優たちは私にユーモアを込めて言う、『僕は方向感覚がなくなって、穴にはまった様な感じになっているんだ。それこそあなたが気に入るものじゃないのか。』」「俳優たちは、自分たちを動揺させるといって私を非難する。」とも言っている。こういった時点で俳優たちの感情が露になるのを待ち構えているのだ。

 「私は、女性の登場人物を俳優にし、男性の登場人物を監督にする傾向がある。」と自分の映画における女優と男優の役割を説明している。『家族生活』のエマニュエルが、娘エリーズ(マラ・ゴイエ)の写真に執着する様は監督のそれである。『ラ・ピラート』の中でも、パリのホテルで、「少女」がナンバー5の持ち物検査をして、彼からアルマの写真を奪うシーンでは、写真が所有を表すと言及されている。また、『15歳の少女』では監督自身がトマの父親の役で登場し、息子の恋人に視線をまとわりつかせ、ついには彼女に拒否されている。これも、女優に視線を向ける監督を表しているものである。とすれば、『ラ・ピラート』のアルマ、アンドリュー、キャロルの対決の場面は、ジェーン・バーキンマルーシュカ・デートメルスにラブシーンを演技指導をするドワイヨンの映ったスティル・を思い出させずにはおかない。ディレクターズ・チェアよろしく、ソファーに座ったアンドリューは彼女たちに口にキスをしろ、喉にキスをしろと命じるのだ。そして、彼女たちはラブシーンを再現し、抵抗する。『家族生活』のマラ・ゴイエの抵抗といい、『15歳の少女』のジュディット・ゴドレーシュの抵抗といい、ドワイヨン自身が実際にそのように演技指導しているかどうかは分からないが、鬼気迫るものである。この再演は『ふたりだけの舞台』でジェーン・バーキンアラン・スーションに再演させたものであり、『イザベルの誘惑』でブリュノがイザベルに再現させたものである。それは、強制する者の妄想を投射して再演させたものである。「あるべき現実」が、ここで演じる者により模倣される。演技者にとって、それは偽りの自己でしかないが、それ自身が映画の中の演技の演技でもあろう。

5.第三者の影あるいは脅かす音

『15歳の少女』で三人の登場人物はそれぞれの影を意識しながら行動していたし、『ふたりだけの舞台』ではジェーン・バーキンの嫉妬には不在の第三者たる「家」が影を落としているが、それでは『ラ・ピラート』ではどうなっているのか。アルマとキャロルの二人の関係を見ていこう。彼女たちの関係は絶えずアンドリューの影に脅かされている。そして、ドアの向こうから聞こえる音によって、二人の抱擁は絶えず中断させられるのだ。冒頭のアルマの家でのアルマとキャロルの最初の抱擁では、アンドリューのアルマを呼ぶ声が邪魔し、二回目の抱擁では、アンドリューの顔を映したあとのドアの閉まる音が、二人の恐怖心を煽る。パリのホテルでの抱擁でも、黒人のホテルマンが酒を持ってくる際のノックと「少女」が急を知らせるノックが二人を戦かせる。そして、ダンケルクのホテルから消えたアルマを探すキャロルが、自らの好む環境である車の中で物思いに耽っているときに、それを覚ますのもナンバー5のクラクションである。そして、この二人を分かつのが、最後の音である銃声であるのは言を待たない。

6.競売にかけられた愛

 この映画の中心に居るアルマは、黒っぽい服を着た他の登場人物の中で一人だけ白い服を着ており、光と他の人々の愛情を一身に集めている(但し、アルマの分身たる「少女」のみは白いセーターも着ている)。冒頭のシーンからして、アルマの帰りを待つ「少女」とキャロルが乗る車の前に、アルマが現れるや否や、「少女」が車のヘッドライトをつけ、彼女を照らしだす。また、五人のうちの三人の居る場所に、残りの二人が現れるときはそれが儀式であるかのように、車の中の一人が他の一人に煙草の火を付ける。先程の冒頭のシーンではキャロルが「少女」に火を求めているし、アルマとキャロルと「少女」のいるダンケルクに、ナンバー5とアンドリューが到着したときは、アンドリューがナンバー5に火を付けてもらっている。この様に光と愛情を一身に集めるアルマを中心として物語は展開する。しかし、その愛情を得るための賭金はラストに向かうにつれ、高くなりついには彼女を殺すことがその賭金となる。人から愛されることを望み、自ら愛さない様な人間は、小学校の歴史の本で見た中世の処刑での様に八つ裂きにされるべきだという強迫観念をドワイヨンは持っている。そのためには四頭の馬が必要なのだ。後ろの二頭の馬車こそ「少女」とナンバー5である。ラストの銃撃のシーンでは、アルマをアンドリュー、キャロル、ナンバー5の三人が押さえ、それを「少女」が撃つ。それはまるでアルマを磔刑にしているかのようである。そして、感情はこの五人の中で次から次へと移っていく。